勿忘草

秋の夜長の物思いの時間だよ。まだ残暑だけど。

 

人の記憶に関して、最近2つの出来事から思う事があった。

 

人が本当に死ぬのはいつか。

心臓が止まったらなのか。呼吸が止まったらなのか。

それは物理的な、生物としての死でしかなくて、

本当の死はたぶん“忘れられる”ことなんじゃないか。

 

小説だったかなんだったか、こんな話を目にしたことがある。

つまり、生きるとは誰かの記憶に、意識に存在することだと。

 

「覚えてくれていて嬉しい。」

よくある言葉で、でも誰かに些細な事でも覚えていてもらえるのは嬉しいことだ。

(時に忘れておいて欲しいこともあるが。)

つい先日もこの言葉を言われ、むしろ僕も数多の人の出会いの中での

ほんの些細な出来事を憶えていてくれて嬉しかった、なんてことがあった。

 

この嬉しいの感情も、突き詰めると実は

「あなたが覚えていてくれるから、私は生きている。それが嬉しい。」

ということになるんだろうか。ちょっと大袈裟だろうか。

 

先日、大好きだった祖父が旅立った。

多くの人が偲んでは、思い出を語っていた。

そうして誰かが憶えていて記憶を繋いでいく限り、祖父は生き続けるんだと思う。

 

そして僕は記憶だけでなく、もう一つ祖父を感じているものがあって

それは可笑しい話だけど“甘いものが好きな遺伝子”なんです。

まぁ父親とその兄はそうなんだけど、その子供連中で甘味ラブなのは

おそらく僕だけで、優しさだとか冷静な性格だとか

もう少し違った遺伝子が欲しかったけど、これも悪くないと思う。

 

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またキス釣りに行こうね、じいちゃん。

 

 

“あなたがいるからこの命は永遠に続いてゆく”

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過保護のカホコ

最近、暇な時間に見逃したドラマや映画をたまに見ている。

 

この週末で見初めて、そろそろ最終回を迎えるのは

タイトルにもある過保護のカホコ

普段は暖かいホームドラマは優先順位低め、なんなら見ないことが多いのだが

1話を見てなんとなく引き込まれてしまった。

(高畑充希が可愛いってのもある。)

 

箱入り娘として育った主人公と、

その家族と、大学で出会ったイケメンくんとを描くほのぼのホームドラマ

まぁ多少の起伏はあれど、基本軸はそんな感じで、至って普通だ。

 

ただし、後半で主人公が結婚に向かっていくあたりから

どうにも胸のあたりがざわつく。

 

…いつか暇な時に書くのだが、

僕がその点において失敗をしたからだろうか。

自分がどんな思いでいたのか、

彼女が、家族親族がどんな思いでいたのか…。

このドラマを見ていると、主人公の青さに、

純粋さに、なんだか生きているのが恥ずかしくなる。

 

最終回はこれから見るけど、

僕のそれとは違ってハッピーエンドであればいいと思う。

徒然なるままに

物事ははじめが肝心らしい。

中学だか高校だかの国語の先生は

「小説ははじまりの一文でどれだけ引き込めるかで決まる」

なんてことを言っていて、それに深く同意した記憶がある。

 

そんな大層な話をする割りには凡庸な始まりになったわけで、

まぁどうせネットの大海に溺れる駄文なので気にはしていない。

 

誰に言うでもない、半端者の戯言を垂れ流すことが好きなので

こうしてブログを久しぶりに始めてみた。

(7年ほど前にもやってたけど、全部消した。)

 

誰も見てはいないから、思うことを

徒然なるままにつづっていこうと思う。